日記

日記です

2021/08/19 光

今から約2年前のある日、実家の犬であるサミーが失明したと連絡が入った。 

当日は研究室の行事が入っていたが担当教官に伝えてすぐに実家に帰った。リビングは大量の緩衝材で埋め尽くされ、視覚に頼らず感覚で歩行する犬がいた。

 

原因は網膜剥離。物理的な衝撃ではなく、おそらく先天的なものだろうとのことだった。シーズー犬はよくかかる病気らしい。当時はまだ6歳で、何とも酷だな思ったものだった。しかし父、母、妹は何とも気丈に振る舞っていた。実家から通っていた2年間しか一緒に日々を過ごさなかった自分が悲しみに暮れているのがおかしく感じるほどだった。

 

ただし希望はあった。犬の網膜剥離の手術を担当できる医師が日本に数人いて、その一人が高砂にいるという。家族は手術をすることを決め、その結果サミーの右目の視力は回復した。左目は右目の手術から時間をおいた際には、もう手遅れとなっていた。

 

手術後サミーはずっと右目が見えており、失明前と変わりない生活を送っているようだった。自分が実家に帰るたびにめんどくさそうに尻尾を振ってくれた。ソファで寝転がっていると、マウントを取るかのごとくソファの縁から見下ろしてきたものだった。

 

そして今日、妹からサミーの右目の視力が落ちてきていることを知らされた。病院で点滴を打ってもらっていたが、体の負担も大きいためもうこれ以上の処置はかわいそうだとのことだった。これから徐々に視力は落ち続けていくだろうとのことだった。

 

自分は再度悲しみにくれながらこの文章を書いているが、この悲しみの原因を考えた。①サミーへの同情②家族への同情③過去の思い出とこれからの整理。 

①②はそのままである。

③は過去の思い出を振り返ると、サミーが目が見えていた時の思い出が多く、同種の思い出を今後紡げなくなるという悲しさがある。初めて家に来たときには走る妹の後ろを全速力で追いかけていたこと、大学生になった頃に彼女を家に呼んでサミーを紹介したこと、サークルの同期後輩が家に遊びに来て階段を登らせようとしたこと、自分が散歩に行くと全然言うことを聞かずに歩かなくなること。一緒に過ごした期間は短いといえたくさんの思い出がある。この種の思い出はもう紡げない。

密かに自分に子どもができたらサミーに会わせるのが夢だった。いざ会わせられるとなったときに、サミーの目が見えないというのはやはり悲しい。

 

自分でもこれだけの悲しいのに、実家の人達はどれだけ悲しいのだろう。特に一番サミーをかわいがっていた母親はどんな気持ちなのだろう。 

母親のLINEのプロフィール画像にはまだ失明する前のサミーが椅子の上にたたずんでいる。

 

ただサミーは死ぬわけではないしこれからもまだまだ生きていくのであって、生活に支障はあっても中身は何ら変わらないのである。家の中では勢いよく吠えるのに外に出ると全く吠えない内弁慶サミー君よ、これからもよろしく頼むわ。 

 


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2021/02/09 ねこまんま

友達に教えてもらった、くどうれいんさんという同世代の作家さんのエッセーがとても良かったので、自分も感受性が豊かな間に日々のことを書こうと思う。(仕事で論理的な文章を書くことに疲れたというのもある。)

 

最近ただただ忙しい。朝7時過ぎに会社に着き、夜9時まで机に貼り付いている。上司も「疲れていない?大丈夫?」と気にかけてくれはするものの、「疲れてます!」と高々に答えたところで仕事が片付くわけではない。

 

こんな調子なので夜ご飯を会社で食べることが多くなった。夜勤をする方がいる関係で、食堂が夜も営業しているのだ。ゆっくりと食べる時間もないため、10分くらいでそそくさと食べる。一年前は友人と長々他愛もない話をして食堂に居座っていたことを考えると大きな変化だ。

 

昨日も食堂で夜ご飯を食べていたところ、ご飯とお味噌汁が中途半端に残った。早く食べ終わろうと思い、かきこむと口の中に「ねこまんま」状態ができた。「ねこまんま」という言葉の懐かしい響きを感じながら、現在の自分の生活のどこにもそのような暖かさを持った言葉が存在しないことに気づいた。

 

もっと日々の生活を大切にしないとなあ、仕事するために生きてるんちゃうぞ、と当たり前のことを思い出した。

と同時に、信仰深い人からすると「神様がねこまんまを通して、仕事をセーブするよう教えてくれたのよ」みたいなことになるのだろうかと、くだらないことを想像して笑ってしまった。

 

 

そういえば妹から先日送られてきた誕生日プレゼントが面白かったので写真を撮った。いや、兄像が小学生時代で止まってんねん。



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2018/1/31

22回目の誕生日

 

この歳になって改めてこれといった目標ができるわけではないが、とりあえずは無病息災で頑張りたい

 

下宿してから風邪になる回数が圧倒的に増えた

 

ただ明らかに作業を片手間にしながら、電話されるというのは、相手がどんな人であっても、やっぱり嫌だ

 

2018/1/16

半年記念日。

 

やったけど、夜景の見えるレストランに行っても、プレゼントを渡してもあまり目に見える嬉しい表情をしてくれず悲しかった。

これは自分にも言えることやけど、嬉しいときは大袈裟にでも顔に出さないと相手には伝わらんのやなぁと思った。

 

あとどういう人であれ、人と対面で話している時にスマホを触る人は嫌いだ。

どうしても触らないといけないときは、なにか一言欲しいなんていうのは自分のワガママなんだろうか。

 

まとめると自分は、顔や言葉に出してもらわないと分からない、大袈裟にいうと気がすまないタチなのだろう。

 

これが自分の欠点なのかは分からない。

が、自分は顔や言葉に感情を出していけるような人間でありたい。

 

怒りの表情さえ出せればクリアできるんかなぁ。

 

2018 1/7

あっという間に2018年。早い早い。

 

去年は院試といい色々なことがあった。その中でも印象深いのが、今の彼女とライブなり色々と遊んだことだ。

 

昨日下宿に遊びにきた時に、ゴムが破れたように見え、水を入れて確認すると言う一幕があった。結果としては破れておらず大丈夫であったのだが、それを確認するまでの間に莫大な懸念が頭の中を駆け巡った。

 

もしデキてたらどうしよう。学生の身分で子どもを養えるのか。親に顔向けできない。

 

ブワーっという感じでもう本当に怖かった。間違いなく今まで生きてきた中で、一番将来について考えた瞬間であっただろう。

 

そんな自分がなんだかとても情けなかった。

 

これからは尚一層気をつけよう。ううう。

6/14 名曲

私が聴いてくれる人のところに行って寄り添ったとしても、ほっぺたをくっつけるぐらいしかできない。だけどその人自身になれたら、一番その人の近くにいられると思うんです。つまりその人の鏡になりたいというか、究極的には私が歌ってなくてもいい、名曲と呼ばれるようなものを作りたいですね。

吉澤嘉代子のインタビューをいくつか読んだが、彼女は「名曲」を作りたいとよく語っている。

その思いは、彼女の音楽のルーツとなる楽曲達からくるのだろう。

その心意気もたいそう好きなのだが、注目すべきは、彼女の言う「名曲」の定義である。

 

「リスナーの鏡になれて、究極的には製作したアーティストが歌っていなくても良い曲」

 

歌手として素晴らしい声を持ちながらも、このような考えが出てくるのかと驚いた。また、各々の趣向が細分化している時代であるからこそ、歌い継がれて行く「名曲」を作りたいのかもしれないと感じた。

何にせよ今まで数々のアーティストのインタビューを読んできて、その中で一番と言って良いほど響いた文章であった。

 

また言葉への執着の強さの理由として以下のように述べている。

中学時代から好きな短歌の影響かもしれないです。言葉の文字数に制限がある中で、どれだけのことを伝えられるかという点では、歌詞の制作に通じる部分があるんですよね。制限や制約があるからこそ、その中で自由になる瞬間を感じられるんだと思います。

何となく、おこがましいが、短歌を好きな理由など自分と感覚が似通っている気がして、嬉しくなった。

 

吉澤嘉代子。つい最近知ったのが悔やまれるほど、創造力(想像力)豊かで面白いミュージシャンである。

 

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6/9 好きな歌詞③(ヤバT,吉澤嘉代子)

①ヤバいTシャツ屋さん

「ヤバみ」

曲の出だしで英語をむやみに使うバンドを否定したり、サビもヤバTらしいヤバい詩なのだが、何気に深い歌詞が混ざっている。

日本語の乱れがどうたらこうたら言うけど

いつの時代でもおんなじ

ふんいきよければそれで全然大丈夫だから

まぢウケんね

これは自分も最近よく思うことだ。正直近頃まで、口語を書き言葉で使ったりすることや、ら抜き言葉が苦手だったのだが、言葉の変化は時代によるものだし伝わったらいいかという考えになってきた。清少納言も当時の言葉の乱れを指摘していたけど、結局現代語は古語からかけ離れているし。この詩でおもしろいのは「ふんいき」や「まぢ」など、乱れた日本語を皮肉のようにあえて使っているところである。

「歌詞に意味がないと!」

「説得力がない!」

もうそんな時代じゃない!?

「理解できないものばっかりはやってく!」

いつまで置いてかれちゃってんの

今の邦ロックシーンの真理を突いていると思う。インターネット社会で様々なバンドが出てきて、ヤバTも含め個性の強いバンドのことを、メッセージ性もないし何が良いんだと思う人もいるであろう。しかし現実としてそういうバンドが流行っているのであって、そう思う人がついていけていない(置いていかれてる)、もしくは認めたくないだけなのではないか。歌詞に大して意味がない曲も好きな自分にとっては、とても爽快な詩なのである。

 

無線LANばり便利」

「Yeah」を「家」とかけるところから始まり、Wi-Fiに関するあるあるを並べる詩から始まる。この曲の詩で一番好きなのは、やはりサビだ。

無線LAN LAN LA LAN LAN LAN LA

LAN LAN LAN LAN LA LAN LAN LAN LA

LAN LAN LAN LAN LAN LA LAN LAN LAN

LAN LAN LAN 無線LAN 有線LANより便利

 小山さんは絶対このサビありきでこの詩を書いているだろう。ドヤ顔が見える。何気にラブソングになっていたりするのだがもはやどうでもいい。こんなにインパクトのあるサビを持つ曲にはそうそう出会えない。

 

吉澤嘉代子

最近どハマりしているシンガーソングライターである。ヤバTの小山さん同様に、この人も相当の奇才だ。

「ガリ」

少しだけ高級なお鮨のパックが半額

恋人の家のドア

ひらくみたいにふたを開けたなら

何か足りない

ガリ ガリ ガリがない

あいつがいなきゃ締まらない

ガリ ガリ ガリがない

あいつがいなきゃ終わらない

今夜が 終わらない

お鮨のパックを開ける仕草の例えもおもしろいのだが、サビに持ってくるのがガリなのがずるい。しかもガリがないことに対する主人公の残念さが少しわかってしまうのも悔しい。

ガリガリになっちゃいそうだ

ダーリンダーリン恋しくて

そこにいるのを忘れてしまうくらい

あたりまえだったから

ガリ ガリ ガリがない

いつでもあると思ってた

ガリ ガリ ガリがない

どうして付け忘れたのか

この人のガリへの熱はすごい。「そこにいるのを忘れてしまうくらい あたりまえだったから」、このフレーズの対象がガリである。しかもガリは何かの比喩ではなく、本当にただのガリなのだ。ずるいなぁ面白いなぁ。

 

「ブルーベリーシガレット」

不良の男の子を好きになってしまう少女の歌であるが、ブルーベリーシガレット(タバコの形をしたラムネの菓子)を絶妙にサビに持ってくる。

あなたが仲間とたむろしている場所

うつむきあしばや通りすぎる日々

そんな真面目ちゃんはもう卒業

駄菓子屋で例のブツを買う

ブルーベリーシガレット

不良になったきぶん

ワルなあなたにお似合いの

カノジョになるため

自分は主人公が背伸びをしている(しようとしている)詩が好きである。これは石野真子の「私の首領」の「はじめての香水も迷惑そうに自然がいいよと 横向いた」という詩にも共通する。

不良に「背伸び」しようと、タバコ型の菓子をくわえる。「背伸び」感MAXである。「きぶん」「カノジョ」などの単語を、あえて漢字にしないのも、「背伸び」感を狙ってのことであろう。なぜ自分は「背伸び」感がある詞が好きなのだろう。まだそこに共感できるほど精神が幼いのか、それともその時期を脱したからこそ客観的に微笑ましく見えるのか、自分でもわからない。

 

吉澤嘉代子は他にも「ケケケ」という恋愛のために剃られる無駄毛に同情(?)する詩の曲を書いたかと思いきや、「うそつき」というレズビアンの子が相手に想い伝えられない複雑な心情を書いた詩の曲を書いたり、本当に面白いミュージシャンである。これからもっと売れないかなぁ。

 

次こそはブルハとハイロウズについて書きたい。